松森美術

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古美術 Antique Art

■山水図

山水図 山水図 山水図 山水図
◇柴田是真 筆  共箱
◇絹本
◇本紙 縦 42.4cm 横 55.3cm

本作は、落款に「岩佐又兵衛以図模写」とあり、柴田是真が岩佐又兵衛の山水図を模写したものと分かります。
岩佐又兵衛は、人物図が多く、本作の原本「山水図」が伝存しているか不明ですが、山容や樹木の描き方等を見ると、岩佐又兵衛のオリジナルの山水図というよりも、室町山水図に倣った図であったと思われます。
≪追記≫

本作の原図であろうと思われる作品が分かりました。現在、彦根市所蔵の井伊家伝来「風俗図(以下、彦根屏風)」の「画中画 山水図屏風」がそれにあたると思われます。美術書等には「寛永期の風俗画の代表作であり・・・」のみで、筆者に岩佐又兵衛の名を見ることはないようです。「彦根屏風」の筆者に関しては、美術史家の研究を参考にしていただくとして、ここではもう少し、柴田是真が、本作を描くために「岩佐又兵衛図」として観たであろう原本について考えてみたいと思います。

以下、推測できるものとして、
A:「画中画 山水図屏風」が描かれている「彦根屏風」
B:実際に存在したかもしれない画中画として取り入れられた岩佐又兵衛筆「山水図屏風」
上記二点が考えられますが、Bは存在を確認できない為、Aの筆者がBを画中画として忠実に写したと仮定して、本作とA・Bを照合してみると、本作は、
<山水図屏風の一扇目から四扇目までを、ほぼ忠実に写している>
<大幅な変更は、一扇目手前の岩山と四扇目船人物と船着場までの距離>

この四扇目までしか描かれていない事と大幅な変更は、屏風の図を掛幅に模写する際の構図変更とも考えられますが、この変更が、Aの屏風前の人物で隠れて見えない部分と照合するのは単なる偶然でしょうか。それにBは六曲一双屏風で存在していた方が自然なので、柴田是真がBを観ていたとすると、本作は、Aでは折れて見えない残り二扇分を描き(図の主軸が一扇目から四扇目であるとは思いますが)尚且つ一双の掛幅であるべき、と考える方が自然なのではないでしょうか。以上から柴田是真は、浮世絵の始祖「浮世又兵衛」の名の下に、Aの「彦根屏風」を岩佐又兵衛筆と観て、本作を描いたと考えられます。

≪制作時期≫

高尾曜氏の論考『国宝「彦根屏風」の伝来と柴田是真』(彦根城博物館 研究紀要 第16号所載)を基にし、その中でも、「彦根屏風」の伝来と柴田是真による原本模写「彦根屏風」(震災で焼失)の制作過程に関する記述を柱にして、本作の制作時期を考えてみたいと思います。

高尾氏は論考の中で、「彦根屏風」は、・・・質屋某→丸屋利兵衛→井伊家と伝来し、柴田是真による原本模写「彦根屏風」の制作過程を、1.質屋某所蔵のとき「彦根屏風」を初見し、模写・着色までしたがさほど正確には出来なかったので、その後、2.丸屋利兵衛所蔵のとき再度正確な模写を墨描きまでして中断し、3.明治十三年の「第一回観古美術会」で「彦根屏風」を実見した次男の柴田真哉が、墨描きまでして中断していた原本模写「彦根屏風」を着色して完成させた、と推測しておられます。

という事は、柴田是真は最低でも三度「彦根屏風」を実見しており、あくまでも感覚的ですが、本作が原本模写「彦根屏風」を本にして制作されたというよりも、「彦根屏風」を実見し模写した、と思われるので、今のところは、この三度のうち一番可能性の高い時を本作の制作時期であると考えたいと思います。

順に見ていくと、1の時は、[原本模写「彦根屏風」を着色までしたがさほど正確には出来なかった・・・]とあるので、原本模写が正確に出来なかったにも拘わらず、「彦根屏風」の「画中画 山水図屏風」の模写である本作は正確に模写できた、とは思えないので可能性は低いように思われます。

2の時は、[正確な模写を墨描きまでして中断し・・・]とあるので、時間をかけて実見し模写することが出来たようなので①よりも可能性は高いように思いますが、この[墨描きまでして中断し・・]というのが気になります。原本模写「彦根屏風」は中断したが本作は完成させた、とも考えられますが、個人所蔵の美術品を模写が出来る程の時間拝見させて頂いたら、模写を完成させ、所蔵者にお見せするのがたとえ親しい間柄であったとしても、作家としての最低限の礼儀・態度であるように思うのです。特に丸屋利兵衛と柴田是真が、“注文主と一職人”という間柄であれば尚更そう思われるので、この時に本作が絹本に描かれ、共箱に収まる作品として完成した可能性は低いように思われます。

3の時は、[明治十三年の「第一回観古美術会」で柴田是真は展覧会の漆器判者であり、次男の柴田真哉は絵画の写図を拝命している。②で墨描きまでして中断していた原本模写「彦根屏風」を次男の柴田真哉が着色して完成させた。]とあり、この事は本作の制作にとても関係してくるように思うのです。なぜなら本作「山水図」の落款に「岩佐又兵衛以図模写」とあるのは、柴田是真が「彦根屏風」を【岩佐又兵衛筆】であるとする表明であり、展覧会監修者の一人として係わった者がとる態度であると思われるのです。(もちろんこれ以前から伝承作者として岩佐又兵衛の名前があったとは思います。)それと、「彦根屏風」を「岩佐又兵衛図」としてまで模写するのに、画の主軸ではない「画中画 山水図屏風」を描くのは、原本模写「彦根屏風」を完成させた後であるべきで、完成させてしまった後だからこそ、わざわざ「画中画 山水図屏風」を描いたのだ、と思われるのです。

原本模写「彦根屏風」を完成させる前に翻案図は制作しても、「画中画 山水図屏風」の模写は制作されないと思うのです。

以上から、本作は「第一回観古美術会」が開催された明治十三年に「彦根屏風」を実見し描いたと思われます。

あとは原本模写「彦根屏風」の落款と「画中画 山水図屏風」の描かれ方が分かれば良いのですが、震災で焼失してしまった今となっては、せめて写真図版だけでも発見されることを望むばかりです。
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